昭和41年03月07日 夜の御理解



 元をとって道を開く者はあられぬ行をするけれども、後々の者は見やすうおかげが受けられる。私は夜のそうした御教えを何時も実感して有難いと思うのは、霊神様にご挨拶を申し上げる時です。元をとって道を開く者、それこそ、あられもない行をするけれども、後々の者はそういう行をせんでも見やすうおかげが受けられる。これは教組の神様御一人の事ではない。
 もちろん教祖の、神様は元をとって道を開いて下さった。そして二代、三代様と言う様に、もうとても、言葉には尽くせないほどの教えを下さって、私共がおかげを受けておる。特に、例えば九州では、九州の道の上に、元を取って下さった、初代の桂大先生、福岡の吉木先生、久留米の初代の石橋先生。私共にとっては、三井教会の初代の、荒巻先生と言った様にです。
 矢張りそうした元をとって下さった方達が、本当にあられもない行をして、私共の為に道開きをして下さった、おかげで私共見やすうおかげが受けられる。本当に見やすうおかげが受けられると言う事をですね、本当に実感して本当に先生方のご修行のたま物が私共が、共ぐらいな者が、私共の様に信心も出来ん者がこうして御用にお仕え回しを頂いてから、今日のおかげを頂いたと言う事を心からこのお礼の申し上げれる。ね。
 ひと時というのは、私は霊神様にご挨拶をする時です。本当にその、自分に信心が本当なものじゃないと、分かれば分かるほど、その実感がね、ようこそこう言う有り難い道を開いておって、下さったんだなと言う事なんですね。けれども、ここで私は思わせて頂く事は、そう云う様な、あられもない修行をして下さって、後々の者の為に、道を開いて下さったその道と言うても。
 なら、ただ安気安穏では私はおかげを頂かんね、後の者もそこで私はそこん所を、まあ、いわゆる裃を付けた様な信心と言う事を感じましたですね。きちっとした信心と言う事です。例えばなら私はここで午前中なら午前中、本当にまあ奉仕させて頂きます。それはもう、自分ながら有り難い楽しいものであり、あの7時間と言うものは誰がなんて言うたって、もう本当に立ちたくない様に有り難い所なんですけれどもね。
 だからこう言う事なんかでも、時々そうやってしとるんではなくてから、その事だけは私は裃着けた様な、信心をしておると言う事ですよ。もう惟はもうそれこそ10年1日の如しと言う言葉がそのまま当てはまって行くです。しかも私が、なら朝1秒間だって遅うなっしちゃないね。私がここに座ったが最後、勿論お茶、水、飲もうても思わないし、また少々便所でん行きたい様な事位な事は我慢します。もう、これは本当に私は我慢します。私は神饌室に立つ事すらよう致しませんから結局おちぶ。
 今日なんか、あの、内田さんの所の子供と波田野さんの所の子供(笑い)。丁度二人悪かつがもう、一生懸命ここで暴れすもん、おやつの一つもやろうと思ったけど誰もいませんから、丁度ここにお供えが来ておりましたでしょうお菓子が。だから、お供えはしておらんけれども、立てば神饌室にあるんですけどね、立ちたくないんです。ですから。神様これを子供にやりますからち、いうてからお供えしとらんのを下げる様に、ぐらいに私はここを立ちたくないです本当にここを。ね。
 ですからねこの事だけは、例えば私がここの所だけは几帳面というか、裃つけた様な信心をさせて頂いて、四六時中と云う事が出来ないに致しましてもです、それが段々信心をさせて頂く様になり、そうさせて頂く事が有り難い事が分かって来る様になり。その時間が7時間が8時間に、なら8時間が12時間になると言う様にです。私はこう言う裃を付けた様な信心が段々でけて行く様になる事が信心が出来て行きよる事だと思うのうです。もう、時間が達成すりゃよか、それは勤めなんかに出ておる人がですね。
 もう、毎日お弁当を持って行き、なんてほんに机にかじりついとって、何か感化しておれば、もう時間がきたら、ぱぁっと立っているんです。もう時間が経つと云う事は待ち長い。そこにはそのさせて頂いておる、仕事に対する迫力もなからなければ、それに生きがいを感じておると言う程しでもない。まあ、毎日こうやって行きよるさえすれば、給料だけは貰うと言う様な、いわゆる時間潰し、いわば、帳面消しの様な。
 日々ではこげなん詰らん生活はないと思うんですね。こんなふうたらな事はおかげになりませんよ言わば。そういうふうたらな事ではです、所謂折角こう言う素晴らしい道を開いておって下さる、その道が道として生かす事が出来んです。元をとって道を開く者と言うものは、それこそあられぬ行をされておられる。後々の者は見やすうおかげは受けられると仰るんだけれども、その見やすうおかげを受けられると言う事もです。
 私はそこにピシッとした節度のある、せめて一時間せめて二時間せめて三時間、そういう意味合いで例えば私共がある意味合いで一つの計画を持ってですね、惟だけはと言った物を神様にも誓い、自分の心にも誓わせて貰う位なものが必要。日参だけは必ず例えば言った様風にですね、これは私がもうこれだけはもう夜であろうが夜中であろうが、あの散歩しとうなかった散歩だけは必ずすると言う様に最近決めておるようでですね。そう言う様なですね、ものが一日の中でどれだけかなからなければいけませんよ。
 それに、時間が経つさえすりゃもう帰ってよか。時間が経つさえすりゃ、もう帳面さえ消しや給料が貰われると言った様な寂しい根性じゃおかげは受けられません。ね。これからこれまで、これだけは、それこそきちっとした事。それこそ、言うなら一生懸命、もっと厳しゅういうならその事だけは命がけ。道をとって道を開く者はあられぬ行をする、あられぬ行をしてでもそういう楽な道というのは、ただ安気安穏にふうたらな生活をしたものの上に開いて下さった道じゃないと言う事。又そんなに詰らない信心、信心生活ともいえないですね。
 そういう生活いわゆる飲んで食うて、ちょいと言う訳ですどうせこの世はそんなもんだと、と言う様な生き方する位詰らない生き方はないと私は思う。しかも私共の一日の中にです、有意義なそうした時間と言うものがです、本当にいわゆるその裃を着けた様な時間がです、段々私共の生活の中にそれが充実して行く。そこに私は改めてそれだけの事が出来たからと言うても矢張り、本当に元をとって道を開いて下さった教祖の神様は勿論の事、初代先代の御霊様達にです心からお礼が申し上げれると言うのは、それが出来なければお礼が申し上げれる様な、私はおかげが受けられないと思うんです。
 皆さんの一日の中にどれ程その裃着けた様な信心がでけておるだろうか、そして、それが育っていきよるだろうか、その時間が段々本当に、その時間だけは自分も裃着けておる信心と言う事が有り難いだろうか。信心は日々の改まりが第一と仰る。成程心の内を改める事も第一なのだけれども、そういう形の上においてもです、改めて行く事。例えば、私共は、例えば今、お風呂に挙がらせて貰って洋服を着ておりましたから、それを、さあこのままここで御祈念する訳には参りません、ね。
 矢張り、改まってきちっと紋付袴を着けさせて貰う。そう云う事だと思うんですね、ある意味で改まってと言う事は、皆さんが例えば、なら夜の御祈念にお参りさせて頂く時、エプロンもはめとる、汚れた前掛けをはめとるけれども、それをやっぱり、エプロンも取り、前掛けもとって、顔のいっちょも洗うて、口にひとつでもゆすいで、改まって御神前に出る。改まってと言う事はそう云う事だと思う。
改まってまたご挨拶に出ますけんね、又改まってお願いに出ますけんと言うでしょうが、あれですよ。日々の改まりと言う事はそう云う事もあると。その改まってと言う事が、しかも裃着けた様にというもんになって来て、私は本当のおかげ、いや本当に、ようもようもこう言う有り難い御道を開いておって下さるんだなと。ね、後々の者は見やすうそういう例えばあられぬ行はせんでも、見やすうおかげが受けられると、仰るそういうおかげもです、そういう改まった、しかも裃着けた様な信心によって、でなからなければそれを受け止める事は出来ないと私は思うておる。
   どうぞ。